解説
1944年8月22日沖縄からの学童疎開船<対馬丸>はアメリカ潜水艦の攻撃で転覆しました。乗船していた学童・引率の先生達約1500名が亡くなりました。お父さん、お母さん、そして先生に助けを求める悲痛な叫び声が夜の海に響いていました。このとき沖縄は既に米軍の包囲網の中にありました。
1944年10月10日、9時間にも及ぶ米軍による沖縄本土への攻撃が開始され、予期せぬ爆撃で那覇は壊滅状態になり多くの住民がなくなりました。今後展開される地上戦の悲劇を住民の誰もが予想することさえできず、ましてや幼い子ども達にとって置かれた状況すら容易に解るすべはありませんでした。
戦況の悪化とともに住民は軍隊に組み込まれ、あるいはマラリアの蔓延する北部、激戦の南部へと逃げ惑う事しかできませんでした。
1945年3月26日アメリカ軍は渡嘉敷諸島に上陸しました。その後90日間に及ぶ悲惨な地上戦が展開されて行きます。
沖縄戦の悲劇は10数万人もの住民を巻き込んで行われたことにあります。軍人よりも一般住民の犠牲者がはるかに多く、ありったけの地獄を集めた戦いでした。ある者は砲弾に倒れ、ある者は自ら命を絶ち、ある者は飢えとマラリアに倒れ、またある者は自国軍の犠牲になり、そして終戦を迎えます。
多くの尊い生命を奪い、伝統文化を破壊し、消す事の出来ない傷跡だけが残った戦争という愚かな行為が何を残したのでしょうか。
日本人として過去の過ちを二度と繰り返すことなく、戦争のない平和な国家と世界平和の実現に努力をしなくてはなりません。平和を求める心と戦争を否定する心を次世代に伝えて行く責務があります。
『もうひとつの沖縄戦記〜あのときそんなこどもたちがいた』DVDビデオ版資料が平和学習の一助となりましたら幸いです。
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